2010年6月30日水曜日

浮かび上がる建築 参

「アニメが語り始める」を終えて
浮かび上がる建築 参


「アニメが語り始める」というタイトルのもと建築を浮かび上がらせることが今回のテーマで、非常に難しいものだった。そんな中、自分になりに今回の企画展で考えたことは下記のふたつ。

①アニメを比較対象として学ぶことで建築の可能性を浮かび上がらせること
②それぞれがトークライブに関するスケッチ・作品を展示することになったので、ことばでうまく伝えきれないものを展示作品にて補完すること。

今までみたアニメを振り返ってみて、アニメが私たちに行動を起こすきっかけを与えてくれていることに興味を覚えた。それは憧れであったり、自己投影であったり・・・。沈滞ムードの世の中で前向きに背中を押してくれるものとして夢を与えている存在と捉えようとした。「きっかけ」に目を付けたのは、建築にそんな力があってほしいという願望からだ。そんなアニメの社会への影響力の大きさに「きっかけはアニメと我に嫉妬する」とまとめてみた。アニメへの嫉妬、偽らざる心境だ。


そんなことを考えて意気消沈している場合ではないと、展示作品では、この状況を遊んでしまえと2つのサイコロをつくってみた。ひとつは、メンバーが子供の頃、何らかの影響を受けたアニメを、もうひとつは今の子供たちがもし建築を志すならきっかけになりそうな事柄を並べたものをつくった。「きっかけ」をキーワードにアニメと建築の相容れないものから何かかが生まれるのかをゲーム仕立てに考えてみた。たとえばアニメのサイコロで「ドラえもん」がでて、建築のサイコロで「ビフォーアフター」がでた場合、未来志向で、感動的なストーリーを元に建築をつくっていく夢見がちな建築家像が生まれてくる。それが何を意味するのか、今回のトークライブの行くへと同じように、わからないのが面白い。そんなことを思っていた。

子供の頃みたアニメでは、余韻から学ぶことが多く、結果としてそのほうが体の中に残っているように、押しつけがましくなく、思考のひとつのきっかけを与えるそんなイベントになればいいなと思っている。


文責:森本雅史-4685

2010年6月29日火曜日

浮かび上がる建築 弐

『アニメが語り始める』を終えて
浮かび上がる建築 弐



今回、浮かび上がったものは・・・「建築」である。

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一つ。アニメを通じて建築を語る
つまり、建築を建築を用いずに語ることに可能性を見出す。

しかし、無理だった。いや、無理ではないな。
理解できてなかったんだな、その事をしっかりと。

アニメにも思い入れがあるから語っちゃったけど、
建築も大いに語っちゃったね、みんな建築好きだから。

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二つ。トークライブ
つまり、予定調和的な語りでなく、偶発が生み出すものに可能性を見出す。

しかし、無理だった。いや、無理ではないな。
理解できていなかったんだな、その事をしっかりと。

みんな、人前でアドリブで語ることは得意だと思う。
設計って、常にアドリブで状況を打開していかなければならないからね。

みんな、設計のプロだから空気が読めるんだね。
そこがなんとも予定調和的で、なんとも真面目な雰囲気だったね。

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結果、この二つが出来ていなかった。
出来ていたのは、建築を建築で語ろうとする日頃の行動かもしれない…。

イベントの趣旨からして 「これではいけない」 と当然こうなる。

イベントには現状のある問題点を感じている発信者側が、別の何かを通じてメッセージやノウハウを発信する事で、その問題点を解決しようとしたり、そこから広がる可能性を見出したりすることができるようになる為のメッセージが必要と考える。
今回のイベントを反省を踏まえて例えるならば「建築」を「建築以外の一般化された何か(アニメ)」で語る事で、聞き手の人々に解りやすく「建築」伝え、聞き手自身が「建築を一般化」する視点を得る事が出来るようになる。そうする事で内向きな建築を外向きに一般化していく事が出来る。そういった一般化の作業を行った上で「新しい可能性=メッセージ」を発信者側から語りかけて、建築をまたはそれに付随する何かを変えていく原動力となる。そういう役割を私達が担うはずではなかったのかという事である。

トークライブは「ライブ」である。音楽でたとえるならばJAZZのジャムセッションだろう。個々のプレーヤーが高度な技術を持ち、互いの演奏に敬意を払いつつ自分たちの演奏をぶつけていく、出過ぎても下がり過ぎてもダメ。絶妙なバランス感覚とセンスが必要である。しかし、その前提として個々のプレーヤーが互いを高いレベルで理解している必要があるだろう。演奏の癖やそもそも音楽に対する姿勢や哲学、そういった高レベルでの関係が、さらに高いレベルでの「おもしろさ」につながる。目標は高いが、そもそもこういう事をやろうとしていたのではないかという自分に改めて気付かされた。

トークライブで建築を建築を用いずに語る。

この難しい課題に考え取組む事で、私の中に「建築」が浮かびあがった。これはもしかするとある意味このイベントの成果かもしれない。しかし本来、私の中にではなく聞き手の側に「建築」が浮かび上がらなければならない。今回を教訓とし、手法でなく主題を改めて問いなおしてみたいとおもう。


文責:進藤勝之-4620

2010年6月28日月曜日

浮かび上がる建築 壱

『アニメが語り始める』を終えて

浮かび上がる建築 壱


なにがしたいのか?


それが今回の企画展を終えての自らの感想だった。


建築を語る今の人々の、思想やら批評・哲学や建築論に乗れば難解なことばを用いて建築を語ってもいいという傲慢な態度がまかり通っているのが許せず、常に感じていた欲求不満があった。


だから今回はインサイダーでもアウトサイダーでもなくオン・ザ・ボーダーの立場でしっかりと語ろうと思っていたのだけれど、思いのほか「建築」を「建築を用いず」に語るというルールに縛られてしまった。


SCMAの企画展の言い出しっぺである僕の思いと他のメンバーの思いの間に大きな温度差があることも今回の企画展でわかったことだった。愛を語っても片思いのままで通じていない恋愛と同じで、仲間にすら伝わらない「思い」、言葉足らずの自分に大きなショックを受けたのは事実である。


さして意味はなかったのだけれど、『建築を建築を用いずに語る』ということ、『建築を一般化する』という僕からの具体的なコトバが、かえってイメージを共有出来なくした原因だったようだ。


それでも今回の企画展はとてもいい結果を産んだと思う。建築に対する「立ち位置」を明確にしなければならないという、ごく当たり前のことが明らかになったからだ。


具体的に何がしたいのか?という問いかけをメンバーから受けた。


それは、建築が駄目になった一番の理由を明快にし、「建築」と称して高所から語る世界を打破して、知的好奇心を持って、役に立たないモノ・コト・ケンチクを面白がる状況をつくることだ思っている。


その思いが、僕らから次世代へと伝えるべき課題だと考えていて、そうしなければ無意識の内にクリエイティビティが消滅してしまうという危機感を持っている。


けれどまだまだその大前提の課題も「共有」されてはいない。

次回の企画展から僕とメンバー・来場者との本格的なバトル&トークライブが始まると思って欲しい。


文責:筑波幸一郎−004580


2010年6月24日木曜日

『アニメが語り始める』トピック24

「見てきたアニメで生き様は変わる」


アニメというカテゴリーで何が語れるのだろう。アニメというだけで拒否反応を示す人もいたり、一家言ある人もあまた居るだろう。


人生を変える人との出会いや読んで感動した一冊などはあるだろうが、生き様をかえるほどのアニメはあっただろうか?


その昔、まだまだ小さかった頃、2次元と現実の区別が無い頃、僕はどこに行けばバカボンのパパやオバケのQ太郎の会えるんだろうと真剣に考えたことがある。良く似た経験で、父に連れて行ってもらった特撮映画『キングコング』もニューヨークに行ったらキングコングが居るんだと思ったものだった。


つくられた虚構の世界と現実の世界の区別がつかない年代、シングルエイジの前半などに見たであろうアニメの影響は、その後の生き様をかえる力を持っていると思う。


今、建築を設計する時に自分の空間感というか陰影の輪郭というものは多分に幼少の頃に経験したモノ、コトに依存していると思う。豊かな空間感覚を持っている人は育ちで言えばおそらく空間のサラブレッド、セレブ育ちだと思う。ひるがえって自分はと言えば。。。


「見てきたアニメで生き様は変わる」


ゼロ年代世代のそれは、つまり共通項はなんだろう。。。

僕らの世代では明らかにいくつかの共通項があった。「世界名作劇場」、「日本むかしばなし」などなど。。。


そうそう、明日25日に「世界名作劇場35周年記念 世界名作劇場オープニング&エンディング集」が発売されるそうだ。全26作品のオープニング&エンディングの映像を収録したDVDとのこと。


「見てきたアニメで生き様が変わってきた」世代が購買層なんだろうか。。。



文責:筑波幸一郎



『アニメが語り始める』トピック23

君も「キャプテン」になろう


人生のなかで、何かをはじめる時にはきっかけが必要だ。そのきっかけとしてアニメが果たしている役割は大きい。アニメの主人公に憧れ、スポーツを始めたり、音楽をはじめたり・・・。自分のなかで、そのひとつがが野球アニメの「キャプテン」だった。小学生のころ、野球をやっている子は「キャプテン」をサッカーの子は「キャプテン翼」を愛読していた。


キャプテンは、それまで主流だった、いわゆる熱血野球アニメとは違う。等身大のキャラクターが、仲間と一緒に努力して成長していく過程をみせていくタイプのアニメだった。当初の主人公である谷口が卒業して、それ以降後を継いだ丸井・イガラシ・近藤が新キャプテンとなり主人公にすることでストーリーが継続された点も特徴的だった。


自分もちょうど小学校の頃、地域では強豪ソフトボールチームに入っていた。へたくそだったが純粋にうまくなりたいと先輩の背中を追いかけ毎日グラウンドで練習していた。そんな時放映していた「キャプテン」が努力すればきっと報われるそんないいイメージを植え付けてくれていた。谷口にあこがれ、谷口を尊敬する丸井に愛着を持ち、自分だったらどんなキャプテンになれるかなと想像をめぐらした。その時は明らかに登るべき山がそこにあり、ひたむきにチャレンジする自分がいた。スーパーヒーローにならなくても、いろんなタイプの生き方があることを教えてくれ勇気をもらった。


自身が子供の頃は、オイルショックから立ち直りバブルへと向かう途中だったので、今日より明日の方が良くなっていくという時代の雰囲気があった。そんな時代だからこそ「キャプテン」の「努力すれば、報われる」という考え方が素直に心に入っていったと思う。今の低迷の時代に子供たちがみてどう思うのかは興味深い。


話は変わるが、建築の専門学校の講師をしている友人が学生から「建築にどうしたら興味を持てるようになるのか」という質問を受けて絶句したことを聞いた。「建築を学びにきて興味を持てないってどういうこと?」と。どう答えればいいのかと聞かれ、「建物より建築家に興味や憧れを持つように薦めては?」と答えたことがある。そんな質問がなくなるように、子供や若い人たちが、建築に憧れをもつようなアニメをつくってくれないかなあ。


文責:森本雅史−004483


2010年6月23日水曜日

『アニメが語り始める』トピック22

『銀河鉄道999の終着駅』

子供というのは、熱しやすく、冷めやすい。さまざまなものが流行り、飽きられていく。子供の頃の遊びでいえば、スーパーカー消しゴムにはじまり、コカコーラのヨーヨーやプロ野球スナック、ガンダムのプラモデル…、とさまざまなブームがやってきた。特急やブルートレインのシールもその一つ。なけなしの小遣い片手に、駄菓子屋へ走ったのが懐かしい。

テレビで『銀河鉄道999』がはじまったのは、その頃だ。格好いい列車がたくさん登場し、それを見たさにテレビにかじりついていたが、そんな幼稚な考えとは裏腹に、深い内容だった。哲郎は、「機械の身体」永遠の命を求め銀河超特急999(スリーナイン)号で旅する少年。ほぼ一話ごとに新たな惑星に停車し、そこで出会うさまざまな出来事が、哲郎を人間的に成長させていく。それは、教訓めいた内容だったのにも関わらず、短編で構成されていたから飽きずに観ることができ、分かりやすかった。

終着駅の惑星で哲郎は、機械の身体を手にした人間の堕落した生活や希望の持てない人生の虚しさを知る。そして、自らは生身の身体のままでいることを選択する。「限りある命」その制約があるからこそ、人は悔いのないように懸命に生きることができるのだ。

人生には、さまざまな制約がある。仕事や恋愛にも、遊びにだって思い通りにならないことがある。その時は、苦しみや悲しみを感じるだろう。でも、そこを懸命に乗り越えた先に喜びや楽しみは待っている。終着駅で良かったと思えるように、生きて行きたい。

文責:中澤博史−004469


2010年6月22日火曜日

『アニメが語り始める』トピック21

『世界名作劇場は子供に「愛」を伝えたか』

「アルプスの少女ハイジ」をはじめとする、世界の名作をアニメで紹介するテレビプログラム「世界名作劇場」。「フランダースの犬」「母を訪ねて三千里」「トムソーヤの冒険」「あらいぐまラスカル」「小公女セーラ」...etc 数々の名作をアニメから日本の子供たちに発信してきた。

この名作を「本」で読もうと思ったら相当な労力だろうし、ましてや小学校低学年あたりで読破できる子供はそうそうおるまい。でも、アニメならさらりと楽しみながらその名作たちに触れる事が出来る。しかも「タダ」で。

今でもそうだが、世間の大人たちは子育て時期に手が離せない時など「テレビ」に子供を預ける時がある。人によっては預けっぱなしの場合もあるだろう。そんな時に子供達が目にする「テレビ番組」には親も注意を払いながらテレビの前に座らせるだろう。テレビを見る子供たちの集中力はすごいものだ。親が言い聞かせるよりもスピーディーに情報を頭に入れ、それを親に教えてくれるまでになる。そんな情報源がテレビである。しかもタダで見放題、それゆえにありがたいし怖い媒体でもあるわけだが。

そんなテレビがら見る事が出来た「世界名作劇場」はその名の通り、世界の名作を私達に届けてくれた。原作が原作だけにその物語から伝えたいことがしっかりとある。幼少の子供達はそんな作者側の「伝えたいこと」を知らず知らずの間に身に着けていくことになる。

中でも世界名作劇場は人間の様々な「愛」の形を子供たちに教えてくれたのではないかと思う。「愛」とは決して形として皆が望むようなものだけでなく、人の生き方に応じて様々な「かたち」があるという事を。子供が大人になる過程で、生きていく中で出会う様々なことから「愛」を見出していく様を、幼少の私達に知らぬ間に刷り込んでくれていたように思う。

そんな世界名作劇場から、私はどんな「愛」を刷り込まれていたのでしょうか。
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私の周りに今どんな「愛」が存在するだろうか。
あなたの周りにはどんな「愛」が存在しますか。
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そして、あなたは「建築」にどんな「愛」を持っていますか。


文責:進藤勝之-4430

2010年6月20日日曜日

『アニメが語り始める』トピック20

『未来予想図アキラと鉄腕アトムどうだった論』

21世紀に入って、早くも10年が経とうとしている。でも、なぜか今でも「21世紀」は未来という気がする。おそらく、子供の頃に抱いていたイメージと、現実とが大きく違うからだろう。

『鉄腕アトム』の連載が始まったのは、戦争に負け、モノの少なかった時代。そこには、科学の発達した未来の都市が描かれた。高層ビルが乱立し、透明チューブの道路が走る。行きかう車は宙を浮き、そして、人型ロボットが暮らしを支える。21世紀には、そんな世界が待っているのだと、人々は夢と希望を持ったに違いない。

僕が子供の頃は、もはや戦後復興期ではないのだけれど、それでも21世紀に対して抱いていたイメージは、『鉄腕アトム』のようなピカピカしたクリーンな世界だった。そして、僕自身もそんな世界が21世紀に入ると待っている、と期待していた。

しかし、21世紀に対しての不安もあった。「1999年7の月に人類は滅亡する」という『ノストラダムスの大予言』もあったし、世紀末に戦争が起こり暴力が横行する内容の映画やアニメが多かったこともある。『AKIRA』もその一つ。再び勃発した世界的な戦争後の21世紀の東京が舞台だ。そこに描かれたのは、現実の延長線上にあるかのような未来の都市。それが、荒廃していく。

アトムが描かれた時代から見ると、現在は便利さや快適さを手に入れてはいるが、想像していたほど科学の発達は速くなかった。また、社会はさまざまな問題をかかえ衰退しつつもあるが、荒廃していると言うほどではない。現実の世界は、アトムほど輝いてもいないが、AKIRAほど荒んでもいない。極端な表現を取ることで、戦後の消沈した人々に夢と希望を与え、冷戦下にあった社会に警鐘をならしていた。空想というものの特徴を限りなく活かした創造だった。メッセージを伝えようとする者にとって見習うべきところは多い。

文責:中澤博史–004385


『アニメが語り始める』トピック19

「正統派サザエさんの終焉」

日本人の生活をあらわしている代表的なアニメと言えば「サザエさん」だと思います。

アニメの命は声優にあると言ってもいいでしょう。サザエさんのメインキャラで最初から声優が変わっていないのは、サザエさん(加藤みどり)、タラちゃん(貴家堂子)、波平(永井一郎)、フネ(麻生美代子)で、マスオさん、カツオ、ワカメは入れ替わっています。

変わった時ってほんとになんだか違和感というか喪失感というか、そういうものを感じてしまいます。ドラえもんのようにドラスティックに声優を入れ替えるのはある意味、正解かもしれません。

声優が変わってイメージが保てなくなった作品・あきらかに印象が代わった作品としては「天才バカボン」、「ルパン三世」、「ドラえもん」などがあります。長年、見続けてきたアニメの声優が変わってしまうと、どうしてもその世界観に入り込めなくなってしまうのが原因でしょう。

映画の吹き替えでもクリント・イーストウッド(山田康雄)や刑事コロンボ(小池朝雄)などで慣れていたものが、声優が亡くなってしまって入れ替えを余儀なくされた結果とはいえ、どうしても今でも違和感を覚えてしまいます。

まあ、声優談義は横に置いておいて、サザエさんに話を戻すと、90年代前半にサザエさんの研究本がいくつか出版され、サザエさんを通して日本人の生活観を探る作業がおこなわれました。最近でもサザエさんをテーマにした書籍はいくつか出版されています。

それらと重複する部分はあるのですが、サザエさんの生活というものを考察してみると、古き良き時代の日本の家族感を、アニメの世界で写し続けている「サザエさん」が、唯一、日本人のアイデンティティーを保たせている、最後の砦と言っても過言ではない気がします。

サザエさんでは家電メーカがスポンサーでありながら、携帯電話、液晶テレビ、パソコンが登場しません。そこには今では希薄になって成立していない日本人固有のものごとである、家族・近所付き合い・お見合い結婚・お正月・お墓参り・子供たちにとっての季節感や原風景が、長谷川町子の原作を何度も今風に焼きなおす形で描かれています。

もし「サザエさん」が終わってしまったら、日本人の生活の規範・機軸となるもの、つまりアイデンティティーは消失、終焉してしまうと言えるでしょう。

それは日本の原風景(お正月の初詣、夏祭りの縁日のシーン)が「男はつらいよ」が渥美清の存在によって成り立っていたように。。。

文責:筑波幸一郎-004369

2010年6月19日土曜日

『アニメが語り始める』トピック18

人間っていいな「まんが日本昔ばなし」

アニメは、こどもたちの感性を養うことができる貴重な存在だ。心温まるもの、残酷なもの、人間と自然・・・押しつけがましくなく余韻として伝えてくれた「まんが日本昔ばなし」。そこには、自分で考える時間を与えてくれていたように思う。

人から教わったものではなく、自分で考えて身につけたものは、一生残っていくと思う。まさに「まんが日本昔ばなし」は、こどもにその機会を与えてくれたアニメだったと感じる。裏を返せば、そのようなアニメが少なくなったということなのか。

また、それぞれの昔話によって、映像のタッチや、音楽のジャンルに違いを持たせていたことや、市原悦子と常田富士男の両名が一人で何役もの声を使い分ける独特の語りなどが、作品としてもクオリティーの高さを持たせていたように思う。作り手が、子供に対して、本物を見せていくということの大切さを理解していたのだろう。

「いいな、いいな、人間っていいな」とエンディングで無邪気に歌う「くまさん」たち。人間は、動物や植物から見てうらやましい存在になっているのだろうか。人間だけで暮らしてきたのではない、自然との共存の歴史を昔からの言い伝えとしてアニメが自然に語ってくれる「まんが日本昔ばなし」。視聴率至上主義の中、番組は終わってしまったが、自分の子供にみせたいと、放送の再開を望んでいるのは、わたしだけではないだろう。

文責:森本雅史–004353

2010年6月18日金曜日

『アニメが語り始める』トピック17

『ブラックジャックを受けとめろ!』

「これってやっぱり「愛」ですよね」

ブラック・ジャック=BJ どうでもいいことだけどなんだかカッコイイ。
どちらかというと私たちアラフォー世代はアニメより漫画の印象の方が強いかも。
いずれにしても医療行為を正面から扱っており、よってテーマは必然的に重いものとなっていました。

あれだけの天才的な施術技術がありながら、BJは医師免許を持っていないのです。更には法外な料金を請求をしたりします。子供心に手術シーンにおける生々しいの描写と飛び交う専門用語は、何か見てはいけないものを見てしまっている気持ちになり、強烈に瞼に焼き付いています。BJはあるときは尊い命を救うことの出来るヒーローであるが、違法医療行為等など社会とは相容れない関係も持っており、まさに正義とか悪とかそんな言葉ではとうてい語ることができない「人間らしさ」を伝えてくれます。そこには患者を救うということが延命、そして幸せに繋がるのか否か。医師としてあるいは一人の人間としての苦悩を描いた強烈な作品だったと思います。

建築の世界ではどうでしょうか。住まいや建築の本質を求めていった時に、クリエイターとして様々な障害との対峙がありますよね。例えば関係法令含めがんじがらめになってしまった日本の中において私たちが突破すべき問題点、木と私たちとのありようなど・・・。クリエイターの立場としてこのBJを受けとめられるでしょうか?冗談ながらBJごとく、一度は法外な設計料を施主に提示してみたい気もしますが・・・。

そんな作品の中にあってピノコはまさに「愛」の対象でした。そして個人的には愛すべき永遠の対象かと思っています。(←変態派?)
ピノコ
http://www.youtube.com/watch?v=VmKUDnQJB3A&feature=related

和み系キャラですよね。いいです。やはりBJには絶対にピノコというキャラが必要だと思います。恋愛とまではは言い切れない関係ではあるが、互いに必要不可欠な関係ではある二人。これってやっぱり「愛」ですよね。

文責:牧野 高尚-004336

2010年6月16日水曜日

『アニメが語り始める』トピック16

「アニメ化する映画の行き着く先は」

深夜枠でアダルト向けのアニメが新作として放映されたりする今、全ての年代にアニメが提供され、それは単なる表現の一手段となった。今のシングルエイジの子供達は、僕たちが体験したものとは異なる原体験をアニメで経験している。それが時代性の違いだけであればさして大きな変化はないのだが、現実には質や内容に大きな位相が生じ、決定的な影響を与えている。

ハリウッド映画が必ずヒットするという常識が覆り、ここ数年、世界第2の市場とされる日本での興行収入が激減している。その原因はハリウッド映画のマンネリ化、スターの不在、CGへの依存などいろいろとあるけれど、最大の理由は日本人のアメリカ文化への憧憬が薄れてしまったからだ。もともと繊細で深みのある作品性を持つ日本の漫画文化やアニメ文化は、全盛時のハリウッド映画のそれに勝るとも劣らないポテンシャルを持っている。手塚治虫作品を焼直したような映画などがたくさんあったり、日本漫画やアニメの原作の映画化権を買い漁る現況を見るとまさにそうである。

しかし、残念なことにそこに登場する日本映画やアニメは、今のシングルエイジが体験してきるものではなく僕らの年代(40代)が体験してきたものに偏っている。理由はいくつかあるのだけれどアニメ・漫画・映画・小説に関わらず、今の日本はある意味、成熟し、熟し過ぎようとしている感がある。

90年代後半から失われた10年の間に進んだグローバリゼーションは、人からモノへ、モノから金へ、その価値を移行してきた。デジタル技術とIT化が人の欲望を即物化していった結果、先進国ではお金だけを追い求めることと,精神性だけを追い求めることへの二極化が進んでいる。

欧米以外で精神性を中心とした意識をもつ国民性があるのは、日本だけだ。アジアの巨龍中国は言わずもがな、インドや東南アジアなどはまだまだ戦後の日本のように物欲、経済発展を第一主義に、僕らの親の世代が経験した“かつて来た道”を邁進している。

最近読んだ本に、日本の書店で売れまくっているスピリチュアル本は他のアジア圏ではまったく売れないそうである。日本人の精神性の大きな変化が『アニメ化する映画の行き着く先』を指し示しているに違いない。


文責:筑波幸一郎-004255

2010年6月15日火曜日

『アニメが語り始める』トピック15

『妖怪人間ベム「早く人間になりたぁい!」は逆説的コピー!?』

アニメが何かを伝える手段であるとするならば、妖怪人間ベムは何を伝えたかったのだろうか。

オープニングから不気味で主人公も不気味。普通の妖怪アニメやお化けアニメとどこか違ってかなりシュールで、小さい子供なら家の中、一人で見ていれば必ず後ろを振り向きたくなるような怖さを持ったアニメだった。
でも、その怖さは単なる怖さではなく、ストーリーの根底にあるのは主人公や妖怪を通じて表現される人間の邪悪さである事に大人になってから気付く事になる。欲深さや憎悪、差別や偏見など妖怪が「なりたい人間」の見にくさを表現し正していく。人間の中にある「悪」を本来悪である妖怪が「正義」を示しながら解決していく。存在と意味を逆転させて表現する事で、物事の本質を語ろうとするものだったに違いない。しかし、本質にしてはあまりに光がない・・・。

私達人間は恐らく「善と悪」を両方併せ持ち、様々な善行と愚行を繰り返してきた、そんな人間の醜い部分をより醜く表現したような「アニメ」はいま存在するのだろうか。悪を悪と思わない、差別を差別と思わない大人や子供達が多い現在、「妖怪人間ベム」が果たしてきた役割は確実にあるのではないかと思う。

あまりにも有名なオープニング
http://www.youtube.com/watch?v=ZGnnYJuCSUQ

最終回。なんだこの醜さは、切なさは・・・。
http://www.youtube.com/watch?v=3n0AAKUqiJ8

文責:進藤勝之-4230

2010年6月14日月曜日

『アニメが語り始める』トピック14

「君はアンパンマンを知っているか」

なぜ、アパンマンは自分の頭を食べさせてしまうのか? と不思議に思っていた。ある時、やなせたかしが書いた「アンパンマン雑記帳「詩とメルヘン'76年6月号」(サンリオ)」をみつけて、伝えたいことを理解したと同時にようやく腑に落ちたことを覚えている。(下記抜粋)

(略) ぼくがまだちいさい子供の時、遠くの町へ遊びにいって財布を落してしまった。ぼくは何も食べることもできず、第一、電車のキップを買うお金がない。日暮れは追ってくるし、まわりは知らない人ばかり、いったいどうしだらいいのか、死ぬほど心細かったのです。しかたなしに、ぼくは線路を歩いて12キロばかり離れた自分の家まで帰ることにした。ぼくは駅へいった。そしてぼうぜんとしばらくそこにたっていた。日暮れの駅ほどあわただしくさびしいものはありません。

誰もかれも、急ぎ足で正確に自分の家を目指して帰巣本能の命ずるままにせかせか歩いていて、ひとりのパッとしない少年がお金がなくて死ぬほど困っていることに気がつくひとなどはいません。無限とみえるほど大勢の人がいても、それは全く自分とは無関係で、言葉さえ通じない異国の人、いや、むしろ、人間以外の何かのようにさえみえます。ぼくはノロノロと移動して、線路への道をさがそうとした時、「やなせ君!」と呼ぶ声がする-。

見れば、ぼくの友人のK君がお母さんと一緒にいるではありませんか。地獄に仏!真実の神!ぼくはK君とそのお母さんのところにライトがあたってそこだけバラ色に輝いているようにみえました。その夜、オレンジ色の光の窓を行列させながら走っていった帰りの電車の中で食ベたアンパンほどおいしい食べものをばくは知りません。アンパンはぼくの食道にしみ、胃の粘膜(ねんまく)にしみ、心にしみた。ぼくは甘美な恍惚感(こうこつかん)にひたった。幸福は、時として不幸の時に実感する。ぼくはその時に思った。本当のスーパーマンは、ほんのささやかな親切を惜しまないひとだと。そして、そういう話をいつかかきたいと子供心に考えたのです。

「アンパンマン」は、息子が見るようになってから一緒にみることになったアニメだ。カレーパンマンや食パンマンなどいろんなキャラクターが人気のアンパンマンだが、個人的には大人になってからのデビューなので「伝えたいこと」に敏感にならざるを得なかった。(ちなみにファンは、ミントでミント~!のミントちゃん)怪獣を派手にやっつけるウルトラマンのようなヒーローものではなく、正義と悪の間で気持ちの揺れ動きを丁寧に描写し、正義とは何なのかを伝えようとする劇場版などでは、涙腺が緩む。キャラクターが子供たちの心をつかみ、本当に伝えようとしていることをストーリーの中で自然に何気なく教えてくれるのだ。(伝わっていると信じたい)

話は飛躍してしまうが、こどもの目線にたった建築というものがあるのかと考えてみる。「アンパンマン」が、こどもの目線にたって大人が伝えようとすることをアニメで表現していると仮定しての話だ。思い浮かぶのが、仙田満氏らが取り組む、子どもに関わる施設の建築群。仙田氏は、子どもの遊び環境を研究テーマとし、その成果を設計へとフィードバックし建築環境をつくり出している。実際訪れ子どもたちの走り回る姿をみると、建築というかその環境のもつ力に勇気づけられる。その他は、残念ながら勉強不足なのか思い浮かばない・・・。

子供時代を振り返る時「原風景」という言葉をよく使う。「原風景」である子供のころの思い出のシーンを包み込んでいるのは、間違いなく私たちが携わっている建築であり、街であり、環境であると思う。このトークショーを機会に、アニメのような強いメッセージ性ないが、建築だからこそできること、魅力を考えるきっかけにできるのではと思っている。楽観的だが前者が「遊びや楽しさそのもの」を与えるものであるのに対して、後者が「楽しさを自ら生み出す可能性」を与えるものなのでは・・・と。そんなこともトークショーにて議論される??

文責:森本雅史-004205

2010年6月11日金曜日

『アニメが語り始める』トピック13

『生きる原点 ギャートルズ』

「やっぱり肉は骨付きだよね」

ブログコメントの前に先ずはOPテーマ曲から

http://www.youtube.com/watch?v=QgtgkPYd40w&feature=related

「ぎゃーお?お?お?!!!」といきなり叫び声からはじまります。とりあえずインパクトありますよね。私が思うに当時としてはかなり斬新なアイディアが組み込まれていたアニメでした。印象に残っているものとしては叫び声が文字として表現され飛んできます。そして具体的に岩のように固化して主人公等に降りかかってくる。こんなあほなこと実写の世界ではありえません。また、うまそうにマンモスの肉を輪切りにして人間がバクバク食っちゃいます。こんな豪快に肉を食うなんて事は贅沢でもあり、当時は憧れでもありました。

主人公ゴンのお母さんが出てくるのですが、グラマラスな身体つきで、いつも片側のおちちがポロンとはみ出しています。但し、いやらしさは全然ないのですが今だときっとNGだろうなと思いつつ、子を育てる母としてのたくましさをビンビンに感じます。物語りとすればとある原始時代の家族の日常ドタバタ喜劇なのですが、なぜか観ていてあきません。なにしろ生きることについて皆たくましい!(ありえないー)お父さんはまさに現代のお父さんです。お母さんに「あんたなんとかしておくれよ!」と頼まれると「しょーが無いか」といいつつ、常に家族の主としてエエかっこしたがります。あぁーアルアルと心の中でお父さんはいつもつぶやいているのです

このアニメは主人公ゴンを中心に生きることの原点をこのアニメは伝えているように思えてなりません。どうしようもない不条理な世界であったり、自然の恐怖でもあったり・・・。しかし、今日は一日色々あったけれども夜が来ればみんなで寝て、明日起きればまた朝が訪れる・・・。そして新たなる一日がはじまるのです。こんな当たり前のことこそがとっても大事なことで、今さらながら気付かされます。そしてEDテーマ曲を聴いて下さい。

http://www.youtube.com/watch?v=jpAl_ekcl0Q&feature=related

なんとも哀愁ただようエンディング曲です。ムッシュかまやつ サイコー!
やっぱり肉は骨付きを食べようとこれを観ると思ってしまいます。
素朴で大切なこと。家族。生きる道徳が刻まれています。


文責:牧野高尚–004164


2010年6月10日木曜日

『アニメが語り始める』トピック12

『あだち充で大人の階段は昇れたか?』


「若松みゆきって、めっちゃカワイイで~」
「まだまだ子供やな~。オレは、鹿島みゆき!」

そんな会話を友達二人がしていたのは、小学校を卒業するほんの少し前。同級生にそんな名前の子はいない。聞くと、『みゆき』というマンガの登場人物だと教えてくれた。作者は、あだち充。清楚でしとやかな同級生「鹿島みゆき」と可憐で活発な義妹「若松みゆき」。この二人と、どちらからも好意を持たれる主人公とが繰り広げる青春ラブコメディだ。そのころの僕にとって、その内容はちょっと背伸びしたもので、どこか気恥ずかしく感じた。

その点、同じ作者の『タッチ』は、違った。ラブコメディという点では同じだが、それに野球がからむスポーツドラマでもある。肝心の試合のシーンなどほとんどないのだが、それでもスポーツがカモフラージュになって、堂々と見ることができるという微妙な差があった。この作品にも「浅倉南」という、これまた可愛い同級生が登場する。

どちらの作品も主人公は、一見したところなんの取り柄もないような普通の少年。そんな主人公だが、なぜか可愛い子にモテるのだ。異性を意識しだす年頃だから、当然、羨ましく思った。恋愛とは無縁で、取り柄もなかった僕に、「もしかしたら…」と微かな期待も抱かせてくれた。それに淡いお色気と、軽いお笑いが加わり、絶妙の間で話は展開していく。好きになるには、十分すぎた。

実をいうと、『みゆき』、『タッチ』ともにアニメ化されたのは、数年後のことで、そのほとんどはコミックで読んだ。でも、あだち充の作品を思うとき、なぜかアニメ『みゆき』のエンディングテーマが頭の中で再生される。

♪ 大人の階段昇る 君はまだシンデレラさ
  しあわせは誰かがきっと 運んでくれると 信じてるね
   少女だったといつの日か 想う時がくるのさ ♪
   (『想い出がいっぱい』H2O)

子供から大人への階段は昇れたのか?

確実に昇り始めていた。
多分…、一段目くらいは……。

文責:中澤博史-004149

2010年6月9日水曜日

『アニメが語り始める』トピック11

『男がなりたいのはルパンかコブラか』

突然だが、男は誰しもかっこよくありたいと思っているだろう。その背景には表の意味と裏の意味があると私は思う。男として「こうありたい」という人物に身を置き替えてあこがれてみたり、真似してみたり。どういうヒーローが自分のなかにあるかで振る舞いが変わったりするものだ。その反対にはそうある事で「女にもてたい」という本来の欲望も併せ持っているはずだ。

そこで問うてみる。君なら「ルパン」か「コブラ」か。

どちらもかっこいい。決して二枚目、男前では無いのにかっこいい。生き方、スタンス、生きる哲学としてかっこいいではないか。そして周りを取り巻く女性陣もセクシーこの上ない。

最も根源的なところで判断してみよう。ルパン3世テレビアニメとして放映され確実に人気があり、私も正義の大泥棒ルパン3世にあこがれたものだった。ヒロインである富士子ちゃんとのやり取りもチラ見せセクシーで、決して交わる事なない関係に絶妙な色欲表現を感じた。しかい、私がやはりかっこいいと思うのは「コブラ」の方である。私の記憶が確かならばアニメを通じて大人の女性に開眼したのは間違いなくアニメ「コブラ」の中の男女関係の描写を見てからである。

「男の子」を「男」に進化させる役割もアニメは担っていたのかもしれない。

あなたにとってなりたいのは「ルパン」か「コブラ」か
http://www.youtube.com/watch?v=qGTKQF8yb3A

文責:進藤勝之-004106


2010年6月8日火曜日

『アニメが語り始める』トピック10

「名門!多古西応援団」橘さん男ってなんですか?

今回のアニメの選定は、好きな建築を選ぶことよりは緊張しなかったが、やっぱり試されているようですっきりしない。今までみてきた気になるアニメ・まんがを選ぼうとするとき、選定者それぞれに基準があるだろう。たとえば、「キャラクターにあこがれ、目標としてきた」「学校では教えてくれないことを教えてくれた」「生き方を学んだ」「絵がうまい」など・・・。その基準にそのひとの考え方、人生を垣間見ることができる。

今回メンバー5人が選ぶそれぞれのアニメから、メンバーのこれまでの生きざまが見えてくるだろうか。生きざまが見えてくることで、今それぞれが活動している建築というフィールドでの考え方が透けてくるだろうか。メンバーでよく話す「パンツを脱ぐ」(赤裸々にさらけ出す)状態になれば、見えてなかった各自の方向性が見えてくるかもという期待もあるのである。

さて、マガジンで連載されていた「名門!多古西応援団」。メンバーで知っている人はいなかった。少しうれしかった。何か、好きな建築をあげろと言われて、自分しか知らない建築を取り上げた時のにやりとする感覚に近かった。(同世代に聞くと、なつかしいなあと言われるほど有名だが・・・・)

5人の中でかぶるといけないのでメジャーなものを回避しながら、個人的に時代別で影響を受けたものを選ぶことを意識したつもりである。「名門!多古西応援団」は、ちょうど中学・高校生の時代に連載されていた。べつに応援団に憧れたわけでもなく、ケンカが強かったわけでもない。なぜ好んで見ていたのか。1話完結のリズムの良さもあるが、団長の橘(たちばな)を筆頭にしたお気楽なキャラクター達が、やるときはやる男気のある硬派な部分に魅力を感じていた。表面的なやさしさや、強さではなく、現実ではありえないような体を張った本当の強さに憧れ、自らを省みていたのだと思う。

改めて取り寄せ、この歳になってみてみたが、無言で行動を起こしていく迫力に共感し、はずかしながら目頭が熱くなる場面も多々・・・。読んだことのない方、メンバーのみなさん一度読んでみてください。

文責:森本雅史-004075

2010年6月5日土曜日

『アニメが語り始める』トピック09

『未来少年コナンの冒険』

早起きした土曜の朝、テレビのチャンネルをパチパチ変えていると『コナン』が放映されていた。懐かしく思い、隣にいた小学生の息子に「コナンを観るか?」と誘うと、なぜか戸惑っている。どうも、コナンはコナンでも『名探偵コナン』を想像し、それとは違うことに気づいたからだ。そこに映っていたのは『未来少年コナン』。宮崎駿監督のテレビアニメである。最終兵器によって人類が絶滅しかけた未来、そこに生きる主人公・コナンとその仲間の冒険活劇だ。ヒロイン・ラナと祖父である博士を助け、世界を守るため立ち上がる。

名探偵コナンと同様、この主人公もずば抜けた能力をもつ子供。名探偵のコナンが天才的な頭脳をもっているのに対して、未来少年のコナンは並みはずれた身体能力の持ち主だ。普通の人間なら絶対に真似できない、大怪我しそうな、時には死んでしまいそうなことをやり遂げる。しかし、超人的なヒーローが当然のようにするのではなく、「もしかしたらできるのかも」と思わせるように描かれている。

たとえば、こんなシーンがある。さらわれたラナを取り戻し、抱きかかえたまま高層ビルから飛び降りる。普通の正義のヒーローなら、着地して平然と走り去るところだが、コナンは違う。全身がしびれ、地面にくっついてしまった足を両手で持ち上げ、へっぴり腰で逃げきる。こんな様子をコミカルに描き、ちりばめられているから、痛快で面白く、そして、身近に感じた。

校舎の階段で何段目から飛ぶことができるか流行ったことがある。1段目からはじめ、4段目までは余裕だ。5段目くらいになると少し怖いが、勇気を振り絞り何とかクリアして面目を保つ。しかし、それ以降は、もうダメで、頭の中には、1段目に足が引っかかるイメージで一杯。今考えると、まったく意味のないことなのだが、その頃の僕たちにとっては楽しく、一種の冒険だった。

話の中で、科学の粋を集めたビルの一室に公園があった。そこには木々が茂り、人々が集う。しかし、それらは全て映像であり、まやかしの世界。そのむなしさは、当時の僕にも理解できた。博士は言う「人間は自然の中でこそ伸びやかに生きることができる」と。コミカルで親しみやすく描くことで子供向けのアニメに落とし込み、重要なメッセージを伝えていた。

このアニメが放映されたのは1978年。この時代、未来を描くアニメでは、最先端のロボットが活躍したり、未知の宇宙を旅したりするものがほとんどだった。科学は人に幸せをもたらすものとして肯定的にとらえられていた。それに対してこの作品では、科学の発展に対して警鐘を鳴らす。子供向けのアニメにこんなメッセージを盛り込むことは、当時としては冒険だったに違いない。コナンやその仲間と共に監督の冒険もあったに違いない。それが、今の評価につながっているように思える。本能的に冒険を求める者は、未知の世界にも挑戦し続ける必要があるということなのだろう。

文責:中澤博史-004044


2010年6月4日金曜日

『アニメが語り始める』トピック08

『トムとジェリーよりドル―ピー』

今でも一定の人気がある「トムとジェリー」。ネコのトムとネズミのジェリーが仲良く喧嘩するハチャメチャコメディーアニメ。
私の記憶が確かならば、夕方6時か6時半ぐらいの平日に短編の3本立てで放映していたはずだ。
学校から帰って、夕飯の前に見る事が出来る楽しみなテレビ番組だった。3本立てのうちの最初と最後は「トムとジェリー」主役にした内容なのだが、そのうちの真ん中のアニメはなぜか「トムとジェリー」ではないのだ。アメリカの文化を皮肉ったり、面白可笑しく紹介したりするアニメやブルドックや熊が主役だったりした。

なかでも私が好きだったのが「ドル―ピー」

ドジで間抜けな「わんこ(犬)」がいろんな騒動に巻き込まれたり、巻きこんだりというストーリーなのだが、このドル―ピーがとってもシュールで周りのドタバタとの対比がなんともおもしろかった。しかもストーリーには教訓じみたものがあって、見ていると「ドル―ピー」の方が正しい行動をとっているようにも見える。なんとなく日本で言うところの「ことわざ」をドルーピーを通じて表現しているかのようだ。

あの頃、漠然と子供の娯楽として見ていたアニメにはかなりの割合で、そっと教訓じみたものが盛り込まれていたような気がするのは私だけだろうか。

さぁ、あなたにその教訓が読み取れるかな?
http://www.youtube.com/watch?v=pftf0GCfi9o
ちなみにこれ最高おもしろい!お楽しみあれ。
http://www.youtube.com/watch?v=o3csWyPl4GE&feature=related


文責:玉川良一。もとい!進藤-004018


2010年6月3日木曜日

『アニメが語り始める』トピック07

『ドラえもんの道具がすべて専用アプリの理由』

パーソナルコンピュータが普及し始めた頃、それは仕事の効率を上げて無駄な時間を減らし人間らしい豊かな時間が増えると言われていた。しかしそれとは全く正反対の方向に進んでいる。

パーソナルコンピュータがネットという大海につながり、情報端末となった今、仕事場でも自宅でもPC画面に向かい、歩きながらでも携帯電話を操作し、彼氏彼女と一緒に食事をしているにも関わらず、目を合わさずにTwitterをしながら時間を過ごすような光景は日常になった。

豊かさは結局余暇という形ではなく「より速く、効率よく」が追求されていったのと同時に、誰もが瞬時に手軽に大量のあらゆる情報を手にすることができ、また発信することが可能になる世界が構築されてきた。

豊かさの基準がどこにあるかは人それぞれだけれど、結構、それは行き着くところに向かっていっていると思う。これはとても素晴らしいことのように見えるけれど、“考えて悩む”という人間の根源である部分を後退させていると思う。

ドラえもんはどの道具もシンプルに単一の機能しかもっていない。そう全部が「専用」で汎用性がない。道具の目的がシンプルで単一、明確なところに実はとても大切な意味が含まれている。

いろんな情報が溢れる中で真実や問題、正解や誤りが見えなくなっているのは、喜怒哀楽という感情や幸・不幸、苦しみや快楽がごちゃ混ぜになってそれを取捨選択する能力が働かなくなってしまっているからだ。

大切なことは「目的や問題」をシンプルな形にし、どうすれば「達成や解決」するのか、また「何が喜びや挫折なのか」を知ることだと思う。

そういう意味で、のび太が直面する問題に対して、それを解決してくれるドラえもんの道具はシンプルで単一の機能であるべきで、それを具現化してくれるものでなくてはならない。

だから皆、のび太を憎めず、ドラえもんが好きなのだ。

ネット環境がドラえもんになり、そこから得られる情報がドラえもんの道具のようになればいいと思う。ドラえもんの道具のように、最後はたいへんな苦労を味わえるような人間的なものになればいいと思う。

文責:筑波幸一郎-004017


2010年6月2日水曜日

『アニメが語り始める』トピック06

『世代間ギャップを超えるメルモちゃん』

「ちょっと背伸びしてみたい。」

あこがれの手塚作品の中でも、このメルモちゃんは毎回ドキドキしながら観ていました。ある意味、変身ものと言えばそうかも知れませんが、何しろメルモちゃんが赤ちゃんからおばあちゃんまで一瞬にして世代間を行き来するのですから大変なことです。特に大人になったメルモちゃんの「ミニ」に当時は萌えていたのは間違いありません。よって親には内緒でコソコソ観ていたような気がします。今思うと恥ずかしい・・・。


しかし、冷静になってよく考えてみるとすごいことがメルモちゃんに起こっていることに気が付きます。ドラマの時間軸は変わらないのに、メルモちゃんを通じて私たちは子供になったり大人になったり・・・。違う立場を経験しているのです。そういえば猫になったりもしましたよね。しかし、洋服は子供から大人になっても同じなのが今から思うといいんです。体は大人になっても心は子供のままなんです。その体験が子供のメルモちゃんにとって必要なことなのです。今の思うとこの時代にOPから生命誕生の気付きの絵が入り、性と命の尊さを強く意識し描いていましたよね。今もってすごい。この時代だから出来たとも言えるのかも知れません。


メルモちゃんを振り返り感じることは山のようたくさんありますが、楽しんで観てみると次の世代をちょっと背伸びしてみる感じが面白いんじゃないかと思うんです。それぞれの世代が次の世代をちょっとだけ背伸びしてみる。そうすると世代間のギャップはありつつも、繋がりが生じ必然と受け継がれるもの、受け継ぐものの「脈」みたいなものがおぼろげに発生するのではないか。そんな意識ってあるような気がするのです。それもドキドキ感を持ちながら。

私もこの年齢になってメルモちゃんのようにはいきませんが「ちょっと背伸びしてみたい」と思うようになっています。うちの先生を尊敬しつつ、建築と共に人としてそう思うのです。「幸せのキャンディー」1回ぐらいはいいかも知れません。みなさんは一粒いかがですか。

http://www.youtube.com/watch?v=jM1yXRPcogc&feature=related

文責:牧野高尚-003997


2010年6月1日火曜日

『アニメが語り始める』トピック05

「あなたは守りたいものがありますか。デビルマン」

デビルマンに詳しいわけではない。学生時代、当時「新世紀エヴァンゲリオン」がブームでビデオ上映会を仲間でやっていた頃、友人が「デビルマン」のマンガを貸してくれた。子供の頃TVアニメで見ていた「デビルマン」と、その時読んだマンガ版との感じ方の違いに驚いたことが忘れられない。原作者の永井豪がほぼ同時進行で作り上げたマンガ版は、TVアニメしか知らない人が見たら、卒倒してしまうほどショッキングなストーリーと残酷描写を持つ作品になっている。アニメとマンガの違い、ターゲットの違いなどにより、伝えようとする内容が変わってくることがおもしろい。「新世紀エヴァンゲリオン」の作者・庵野秀明が「デビルマン」から影響を受けたと語っていたことを後になって知ったのだが、友人は知っていて貸してくれたのだろう。

マンガでは、主人公・不動明は人間の心と悪魔の力を持つ悪魔人間・デビルマンとして、アニメでは、デビルマン(悪魔)の意識が不動明を取り込んだ形になっているため、「愛に目覚めて人間の側に立った悪魔」ということが強調されているという。人間が「守るべき価値の見い出せない存在」と知って苦悩するデビルマン。何のために戦うのか。誰のために戦うのか。人間の本質をえぐり出し、醜さ愚かさを心に刻み込ませる。

「人の世に愛がある 人の世に夢がある この美しいものを 守りたいだけ」(「今日もどこかデビルマン」)。

オープニング「デビルマンのうた」とエンディング「今日もどこかデビルマン」はストーリーよりも鮮明に覚えている。ちなみに作詞はいずれも阿久悠。アニメのための作られた主題歌が懐かしい。

文責:森本雅史-003978