2010年6月9日水曜日

『アニメが語り始める』トピック11

『男がなりたいのはルパンかコブラか』

突然だが、男は誰しもかっこよくありたいと思っているだろう。その背景には表の意味と裏の意味があると私は思う。男として「こうありたい」という人物に身を置き替えてあこがれてみたり、真似してみたり。どういうヒーローが自分のなかにあるかで振る舞いが変わったりするものだ。その反対にはそうある事で「女にもてたい」という本来の欲望も併せ持っているはずだ。

そこで問うてみる。君なら「ルパン」か「コブラ」か。

どちらもかっこいい。決して二枚目、男前では無いのにかっこいい。生き方、スタンス、生きる哲学としてかっこいいではないか。そして周りを取り巻く女性陣もセクシーこの上ない。

最も根源的なところで判断してみよう。ルパン3世テレビアニメとして放映され確実に人気があり、私も正義の大泥棒ルパン3世にあこがれたものだった。ヒロインである富士子ちゃんとのやり取りもチラ見せセクシーで、決して交わる事なない関係に絶妙な色欲表現を感じた。しかい、私がやはりかっこいいと思うのは「コブラ」の方である。私の記憶が確かならばアニメを通じて大人の女性に開眼したのは間違いなくアニメ「コブラ」の中の男女関係の描写を見てからである。

「男の子」を「男」に進化させる役割もアニメは担っていたのかもしれない。

あなたにとってなりたいのは「ルパン」か「コブラ」か
http://www.youtube.com/watch?v=qGTKQF8yb3A

文責:進藤勝之-004106


2010年6月8日火曜日

『アニメが語り始める』トピック10

「名門!多古西応援団」橘さん男ってなんですか?

今回のアニメの選定は、好きな建築を選ぶことよりは緊張しなかったが、やっぱり試されているようですっきりしない。今までみてきた気になるアニメ・まんがを選ぼうとするとき、選定者それぞれに基準があるだろう。たとえば、「キャラクターにあこがれ、目標としてきた」「学校では教えてくれないことを教えてくれた」「生き方を学んだ」「絵がうまい」など・・・。その基準にそのひとの考え方、人生を垣間見ることができる。

今回メンバー5人が選ぶそれぞれのアニメから、メンバーのこれまでの生きざまが見えてくるだろうか。生きざまが見えてくることで、今それぞれが活動している建築というフィールドでの考え方が透けてくるだろうか。メンバーでよく話す「パンツを脱ぐ」(赤裸々にさらけ出す)状態になれば、見えてなかった各自の方向性が見えてくるかもという期待もあるのである。

さて、マガジンで連載されていた「名門!多古西応援団」。メンバーで知っている人はいなかった。少しうれしかった。何か、好きな建築をあげろと言われて、自分しか知らない建築を取り上げた時のにやりとする感覚に近かった。(同世代に聞くと、なつかしいなあと言われるほど有名だが・・・・)

5人の中でかぶるといけないのでメジャーなものを回避しながら、個人的に時代別で影響を受けたものを選ぶことを意識したつもりである。「名門!多古西応援団」は、ちょうど中学・高校生の時代に連載されていた。べつに応援団に憧れたわけでもなく、ケンカが強かったわけでもない。なぜ好んで見ていたのか。1話完結のリズムの良さもあるが、団長の橘(たちばな)を筆頭にしたお気楽なキャラクター達が、やるときはやる男気のある硬派な部分に魅力を感じていた。表面的なやさしさや、強さではなく、現実ではありえないような体を張った本当の強さに憧れ、自らを省みていたのだと思う。

改めて取り寄せ、この歳になってみてみたが、無言で行動を起こしていく迫力に共感し、はずかしながら目頭が熱くなる場面も多々・・・。読んだことのない方、メンバーのみなさん一度読んでみてください。

文責:森本雅史-004075

2010年6月5日土曜日

『アニメが語り始める』トピック09

『未来少年コナンの冒険』

早起きした土曜の朝、テレビのチャンネルをパチパチ変えていると『コナン』が放映されていた。懐かしく思い、隣にいた小学生の息子に「コナンを観るか?」と誘うと、なぜか戸惑っている。どうも、コナンはコナンでも『名探偵コナン』を想像し、それとは違うことに気づいたからだ。そこに映っていたのは『未来少年コナン』。宮崎駿監督のテレビアニメである。最終兵器によって人類が絶滅しかけた未来、そこに生きる主人公・コナンとその仲間の冒険活劇だ。ヒロイン・ラナと祖父である博士を助け、世界を守るため立ち上がる。

名探偵コナンと同様、この主人公もずば抜けた能力をもつ子供。名探偵のコナンが天才的な頭脳をもっているのに対して、未来少年のコナンは並みはずれた身体能力の持ち主だ。普通の人間なら絶対に真似できない、大怪我しそうな、時には死んでしまいそうなことをやり遂げる。しかし、超人的なヒーローが当然のようにするのではなく、「もしかしたらできるのかも」と思わせるように描かれている。

たとえば、こんなシーンがある。さらわれたラナを取り戻し、抱きかかえたまま高層ビルから飛び降りる。普通の正義のヒーローなら、着地して平然と走り去るところだが、コナンは違う。全身がしびれ、地面にくっついてしまった足を両手で持ち上げ、へっぴり腰で逃げきる。こんな様子をコミカルに描き、ちりばめられているから、痛快で面白く、そして、身近に感じた。

校舎の階段で何段目から飛ぶことができるか流行ったことがある。1段目からはじめ、4段目までは余裕だ。5段目くらいになると少し怖いが、勇気を振り絞り何とかクリアして面目を保つ。しかし、それ以降は、もうダメで、頭の中には、1段目に足が引っかかるイメージで一杯。今考えると、まったく意味のないことなのだが、その頃の僕たちにとっては楽しく、一種の冒険だった。

話の中で、科学の粋を集めたビルの一室に公園があった。そこには木々が茂り、人々が集う。しかし、それらは全て映像であり、まやかしの世界。そのむなしさは、当時の僕にも理解できた。博士は言う「人間は自然の中でこそ伸びやかに生きることができる」と。コミカルで親しみやすく描くことで子供向けのアニメに落とし込み、重要なメッセージを伝えていた。

このアニメが放映されたのは1978年。この時代、未来を描くアニメでは、最先端のロボットが活躍したり、未知の宇宙を旅したりするものがほとんどだった。科学は人に幸せをもたらすものとして肯定的にとらえられていた。それに対してこの作品では、科学の発展に対して警鐘を鳴らす。子供向けのアニメにこんなメッセージを盛り込むことは、当時としては冒険だったに違いない。コナンやその仲間と共に監督の冒険もあったに違いない。それが、今の評価につながっているように思える。本能的に冒険を求める者は、未知の世界にも挑戦し続ける必要があるということなのだろう。

文責:中澤博史-004044


2010年6月4日金曜日

『アニメが語り始める』トピック08

『トムとジェリーよりドル―ピー』

今でも一定の人気がある「トムとジェリー」。ネコのトムとネズミのジェリーが仲良く喧嘩するハチャメチャコメディーアニメ。
私の記憶が確かならば、夕方6時か6時半ぐらいの平日に短編の3本立てで放映していたはずだ。
学校から帰って、夕飯の前に見る事が出来る楽しみなテレビ番組だった。3本立てのうちの最初と最後は「トムとジェリー」主役にした内容なのだが、そのうちの真ん中のアニメはなぜか「トムとジェリー」ではないのだ。アメリカの文化を皮肉ったり、面白可笑しく紹介したりするアニメやブルドックや熊が主役だったりした。

なかでも私が好きだったのが「ドル―ピー」

ドジで間抜けな「わんこ(犬)」がいろんな騒動に巻き込まれたり、巻きこんだりというストーリーなのだが、このドル―ピーがとってもシュールで周りのドタバタとの対比がなんともおもしろかった。しかもストーリーには教訓じみたものがあって、見ていると「ドル―ピー」の方が正しい行動をとっているようにも見える。なんとなく日本で言うところの「ことわざ」をドルーピーを通じて表現しているかのようだ。

あの頃、漠然と子供の娯楽として見ていたアニメにはかなりの割合で、そっと教訓じみたものが盛り込まれていたような気がするのは私だけだろうか。

さぁ、あなたにその教訓が読み取れるかな?
http://www.youtube.com/watch?v=pftf0GCfi9o
ちなみにこれ最高おもしろい!お楽しみあれ。
http://www.youtube.com/watch?v=o3csWyPl4GE&feature=related


文責:玉川良一。もとい!進藤-004018


2010年6月3日木曜日

『アニメが語り始める』トピック07

『ドラえもんの道具がすべて専用アプリの理由』

パーソナルコンピュータが普及し始めた頃、それは仕事の効率を上げて無駄な時間を減らし人間らしい豊かな時間が増えると言われていた。しかしそれとは全く正反対の方向に進んでいる。

パーソナルコンピュータがネットという大海につながり、情報端末となった今、仕事場でも自宅でもPC画面に向かい、歩きながらでも携帯電話を操作し、彼氏彼女と一緒に食事をしているにも関わらず、目を合わさずにTwitterをしながら時間を過ごすような光景は日常になった。

豊かさは結局余暇という形ではなく「より速く、効率よく」が追求されていったのと同時に、誰もが瞬時に手軽に大量のあらゆる情報を手にすることができ、また発信することが可能になる世界が構築されてきた。

豊かさの基準がどこにあるかは人それぞれだけれど、結構、それは行き着くところに向かっていっていると思う。これはとても素晴らしいことのように見えるけれど、“考えて悩む”という人間の根源である部分を後退させていると思う。

ドラえもんはどの道具もシンプルに単一の機能しかもっていない。そう全部が「専用」で汎用性がない。道具の目的がシンプルで単一、明確なところに実はとても大切な意味が含まれている。

いろんな情報が溢れる中で真実や問題、正解や誤りが見えなくなっているのは、喜怒哀楽という感情や幸・不幸、苦しみや快楽がごちゃ混ぜになってそれを取捨選択する能力が働かなくなってしまっているからだ。

大切なことは「目的や問題」をシンプルな形にし、どうすれば「達成や解決」するのか、また「何が喜びや挫折なのか」を知ることだと思う。

そういう意味で、のび太が直面する問題に対して、それを解決してくれるドラえもんの道具はシンプルで単一の機能であるべきで、それを具現化してくれるものでなくてはならない。

だから皆、のび太を憎めず、ドラえもんが好きなのだ。

ネット環境がドラえもんになり、そこから得られる情報がドラえもんの道具のようになればいいと思う。ドラえもんの道具のように、最後はたいへんな苦労を味わえるような人間的なものになればいいと思う。

文責:筑波幸一郎-004017


2010年6月2日水曜日

『アニメが語り始める』トピック06

『世代間ギャップを超えるメルモちゃん』

「ちょっと背伸びしてみたい。」

あこがれの手塚作品の中でも、このメルモちゃんは毎回ドキドキしながら観ていました。ある意味、変身ものと言えばそうかも知れませんが、何しろメルモちゃんが赤ちゃんからおばあちゃんまで一瞬にして世代間を行き来するのですから大変なことです。特に大人になったメルモちゃんの「ミニ」に当時は萌えていたのは間違いありません。よって親には内緒でコソコソ観ていたような気がします。今思うと恥ずかしい・・・。


しかし、冷静になってよく考えてみるとすごいことがメルモちゃんに起こっていることに気が付きます。ドラマの時間軸は変わらないのに、メルモちゃんを通じて私たちは子供になったり大人になったり・・・。違う立場を経験しているのです。そういえば猫になったりもしましたよね。しかし、洋服は子供から大人になっても同じなのが今から思うといいんです。体は大人になっても心は子供のままなんです。その体験が子供のメルモちゃんにとって必要なことなのです。今の思うとこの時代にOPから生命誕生の気付きの絵が入り、性と命の尊さを強く意識し描いていましたよね。今もってすごい。この時代だから出来たとも言えるのかも知れません。


メルモちゃんを振り返り感じることは山のようたくさんありますが、楽しんで観てみると次の世代をちょっと背伸びしてみる感じが面白いんじゃないかと思うんです。それぞれの世代が次の世代をちょっとだけ背伸びしてみる。そうすると世代間のギャップはありつつも、繋がりが生じ必然と受け継がれるもの、受け継ぐものの「脈」みたいなものがおぼろげに発生するのではないか。そんな意識ってあるような気がするのです。それもドキドキ感を持ちながら。

私もこの年齢になってメルモちゃんのようにはいきませんが「ちょっと背伸びしてみたい」と思うようになっています。うちの先生を尊敬しつつ、建築と共に人としてそう思うのです。「幸せのキャンディー」1回ぐらいはいいかも知れません。みなさんは一粒いかがですか。

http://www.youtube.com/watch?v=jM1yXRPcogc&feature=related

文責:牧野高尚-003997


2010年6月1日火曜日

『アニメが語り始める』トピック05

「あなたは守りたいものがありますか。デビルマン」

デビルマンに詳しいわけではない。学生時代、当時「新世紀エヴァンゲリオン」がブームでビデオ上映会を仲間でやっていた頃、友人が「デビルマン」のマンガを貸してくれた。子供の頃TVアニメで見ていた「デビルマン」と、その時読んだマンガ版との感じ方の違いに驚いたことが忘れられない。原作者の永井豪がほぼ同時進行で作り上げたマンガ版は、TVアニメしか知らない人が見たら、卒倒してしまうほどショッキングなストーリーと残酷描写を持つ作品になっている。アニメとマンガの違い、ターゲットの違いなどにより、伝えようとする内容が変わってくることがおもしろい。「新世紀エヴァンゲリオン」の作者・庵野秀明が「デビルマン」から影響を受けたと語っていたことを後になって知ったのだが、友人は知っていて貸してくれたのだろう。

マンガでは、主人公・不動明は人間の心と悪魔の力を持つ悪魔人間・デビルマンとして、アニメでは、デビルマン(悪魔)の意識が不動明を取り込んだ形になっているため、「愛に目覚めて人間の側に立った悪魔」ということが強調されているという。人間が「守るべき価値の見い出せない存在」と知って苦悩するデビルマン。何のために戦うのか。誰のために戦うのか。人間の本質をえぐり出し、醜さ愚かさを心に刻み込ませる。

「人の世に愛がある 人の世に夢がある この美しいものを 守りたいだけ」(「今日もどこかデビルマン」)。

オープニング「デビルマンのうた」とエンディング「今日もどこかデビルマン」はストーリーよりも鮮明に覚えている。ちなみに作詞はいずれも阿久悠。アニメのための作られた主題歌が懐かしい。

文責:森本雅史-003978