2009年8月19日水曜日

違和感を持つこと

先日ある建築家にインタビューをする機会があり、心に残った一言がありました。

「学生時代から想い続けていた建築・社会に対する「違和感」を、当時は表現する術がなかったですが、今になって表現できるようになってきたと思います」という言葉でした。
その建築家の抱いていた違和感とは、「モダニズムを理想型とする建築教育」、「洗練化されていくデザインの兆候」だったといいます。

辞書で調べてみると違和感とは、「周りのものと関係がちぐはぐで、しっくりしないこと」とのこと。論理的なことではなく、感覚的なことだということがわかります。感覚としてモダニズムと洗練デザインに違和感を覚えるとは、教授陣にとっては扱いづらい学生だったろうなと思いますが・・。

たとえば現在、建築雑誌をにぎわしている白い空間に対して持つ共通の違和感。よく友人と「同じような感じの建物が多いなあ」と話していますが、わたしはむしろ違和感が同じ方向に偏ることに対して違和感を感じてしまいます。多様な価値、多様な感覚が存在し、それを拾い上げるメディアがある状態が健全なのではと思います。現在に生きる人たちの感覚が似てきているのでしょうか。
野武士の時代1970年代のゴツゴツした男性的で多様な感覚・思想をみてみると、そう思います。

それぞれが、生い立ちや経験から、現状に対して自らの感覚から沸き起こる違和感を持ち続け何らかの形にできた時、結果的に様々な建築が立ち現われるではないかと思います。

そのインタビューの最後に、「最近の学生をはじめ若い人は10年前程の建築しか興味がない状況を憂い、建築の歴史の話を常にするようにしている」語られていました。そこに感覚が似てきているという現象のヒントがあるように思いました。

文責:森本 -00317

2009年8月11日火曜日

世代論で語るとすれば

私が建築を目指したのはかなり遅くて大学3年に進んでからでした。それまでは漠然としながらも映像かデザインへの道に進んでいくのだろうと考えていました。


今となってはどうしようもないことですが、まじめに建築を学んだ記憶はあまりありません。私が建築を学んだ京都市立芸術大学には建築学科ではなく、環境デザイン学科という広義での空間、身の回りにあるものすべてを対象としてを学ぶ専攻がありました。今ではどこの大学でも建築系の「環境デザイン」という名称の学科がありますが、当時は何をするとことなのかを説明しなければわかってもらえないということがよくありました。


私自身が本当の意味で実務に関する建築を学んだのは社会に出てからでした。しかし、大学において建築というものを全く学ばなかった、学べなかったというわけではありませんでした。私が、建築の道に進むことに大きな影響を与えてくれた恩師との出会いがありました。現実の設計技術や設計手法を学ぶというよりも、多くの時間を『建築とは何か』ということを言葉ではなく、もうすこし上位の感覚で時に厳しく、時には優しく指導された記憶があります。


私は1968年生まれで、建築を学んだのは1990年初頭になります。


世代的な話をすると60年代生まれの建築家は「フラット派」「ユニット派」などと軽称で呼ばれ、それ以前の上の世代の「先生」と呼ばれるスタンドカラーの建築家イメージと対照的な存在、カジュアルな世代として一括りにされていますが、現実的に、現在、それらを担っているのは1970年以降の世代であり、1960年代の世代は結果として『建築を喪失』した年代だと考えています。


というのも、豊かに建築を学べたが故に、積極的に建築を学ばなかった世代であり、建築家=先生(1960以前)という図式から脱却できず、かといって建築家≠先生(1970以降)にもなれないという過渡期にいるからです。それゆえ上下の世代から挟まれてその曖昧さゆえにどっちつかずの存在になっているように定義されています。


しかし、実は、建築(さらには建築以外のすべて)において、2010年以降の動向を大きく担っているのはこの60年代生まれの世代であると私は考えています。


今、現在、脚光を浴びている建築家≠先生(1970以降)の世代は、全く正反対のようでいて、実は同じである保守的な存在の建築家=先生(1960以前)があるからこそその存在があるわけで、単独での存在定義はありえません。そのどちらもがどちらもあまりにも保守的であり、創造的であるとは思えないのです。しかし、60年代生まれの世代は、その間にあって、それらの遍重を調整する役目を担い、真の意味での古い価値観と新しい価値観を読み取り、さらには見えざる価値観を探す次の世代だと信じているからです。


あくまでも世代論で語るとすればですが。。。




文責:筑波 - 00242 -





2009年8月6日木曜日

生まれた年代で何が見えるか

建築家を大きく生まれた年代でくくるというひとつの傾向があると思う。

それは、十年単位で時代が変化し、建築の思想や経済の変化が著しく変わるものでなく、10年という単位が馴染むからだろうか。私は1969年生まれ、つまり60’sに属する。生まれた世代でいえば60’sの最後尾につけているとい言う訳だ。先頭は1960年生まれとなる。彼らは現在では49歳、今年50歳になろうとしている人達だ。

私は建築家にとって40歳からの10年間は非常に大切で、個人差はあれどこの10年は確立した自己を熟成させていく10年だと思っている。そう考えると60’sの先頭に立つ方々は、その成熟期を越えて、さらなるステージへ登ろうとしている人達ともいえる。

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私の手元に「新建築 住宅特集 1988年12月号」がある。

これは、住宅特集が「JA house」として刊行され始める前の最後の号だ。「50’sNOW」という特別企画を組んである。今私がこの雑誌を手にして、当時購入した時と全く違った意味をもつ書籍として存在する事に非常に面白みがあると思っている。「生まれた世代」で選別し、その建築家たちがどう進んでいこうとするのかを新建築的に期待感をもって取り上げている。前段にもふれたとおり40代からの10年間が建築家としての成熟期であるとすれば、この特別企画に取り上げられた、新建築的若手有望建築家たちは現在、さらなるステージへ登り始めたあるいはそこで10年を成し遂げた建築家の集団という事になる。

この50’sの「今」に自分の10年先のスタンスや価値観あるいは時代や経済状況、建築思潮をオーバーラップさせて、より自分に近い、あるいは自分の好きな建築家を追いかけていくと、様々な面白い事が見えてくるのではないか、さらに自分の振る舞うべき姿もが見えてくるのではないか、そう思っえば楽しい見方ができるのではないかとおもいここに書くことにした。

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ここに取り上げられた50’sを敬意をもって列記する。
あなた方は、彼らにどうオーバーラップすることができますか?

入江経一
シーラカンス
首藤廣剛
飯島洋一
石田敏明
高橋晶子+高橋寛
沖健次
坂 茂
白旗定幸+岡田裕康
妹島和世
飯田善彦
渡辺明
武田光史
岡崎恭子
芦原太郎
福垣哲朗(竹中工務店大阪)
平倉直子
団紀彦
岸和郎
木下庸子+渡辺真理
内藤廣
西本圭敦
宮森洋一郎
小川晋一
三浦周治
古谷誠章
野田俊太郎
小林克弘
横谷英之(日建設計東京)
井上章一
北川原温
アモルフ
小川明
隈研吾+篠原聡子
小室雅伸
宇野求
渡辺誠
岡河貢
杉浦伝宗
高崎正治
木村博昭
野沢誠
彦坂裕
宮沢秀治
小松清路
染谷正弘
アーキテクトファイブ
三沢康彦+三沢文子
近藤春司
鈴木隆之
宮本佳明
菊池誠(磯崎アトリエ)

以上、面白いでしょ。
新建築住宅特集1988年12月号より

文責:進藤 - 00198 -