私が建築を目指したのはかなり遅くて大学3年に進んでからでした。それまでは漠然としながらも映像かデザインへの道に進んでいくのだろうと考えていました。
今となってはどうしようもないことですが、まじめに建築を学んだ記憶はあまりありません。私が建築を学んだ京都市立芸術大学には建築学科ではなく、環境デザイン学科という広義での空間、身の回りにあるものすべてを対象としてを学ぶ専攻がありました。今ではどこの大学でも建築系の「環境デザイン」という名称の学科がありますが、当時は何をするとことなのかを説明しなければわかってもらえないということがよくありました。
私自身が本当の意味で実務に関する建築を学んだのは社会に出てからでした。しかし、大学において建築というものを全く学ばなかった、学べなかったというわけではありませんでした。私が、建築の道に進むことに大きな影響を与えてくれた恩師との出会いがありました。現実の設計技術や設計手法を学ぶというよりも、多くの時間を『建築とは何か』ということを言葉ではなく、もうすこし上位の感覚で時に厳しく、時には優しく指導された記憶があります。
私は1968年生まれで、建築を学んだのは1990年初頭になります。
世代的な話をすると60年代生まれの建築家は「フラット派」「ユニット派」などと軽称で呼ばれ、それ以前の上の世代の「先生」と呼ばれるスタンドカラーの建築家イメージと対照的な存在、カジュアルな世代として一括りにされていますが、現実的に、現在、それらを担っているのは1970年以降の世代であり、1960年代の世代は結果として『建築を喪失』した年代だと考えています。
というのも、豊かに建築を学べたが故に、積極的に建築を学ばなかった世代であり、建築家=先生(1960以前)という図式から脱却できず、かといって建築家≠先生(1970以降)にもなれないという過渡期にいるからです。それゆえ上下の世代から挟まれてその曖昧さゆえにどっちつかずの存在になっているように定義されています。
しかし、実は、建築(さらには建築以外のすべて)において、2010年以降の動向を大きく担っているのはこの60年代生まれの世代であると私は考えています。
今、現在、脚光を浴びている建築家≠先生(1970以降)の世代は、全く正反対のようでいて、実は同じである保守的な存在の建築家=先生(1960以前)があるからこそその存在があるわけで、単独での存在定義はありえません。そのどちらもがどちらもあまりにも保守的であり、創造的であるとは思えないのです。しかし、60年代生まれの世代は、その間にあって、それらの遍重を調整する役目を担い、真の意味での古い価値観と新しい価値観を読み取り、さらには見えざる価値観を探す次の世代だと信じているからです。
あくまでも世代論で語るとすればですが。。。
文責:筑波 - 00242 -
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