先日ある建築家にインタビューをする機会があり、心に残った一言がありました。
「学生時代から想い続けていた建築・社会に対する「違和感」を、当時は表現する術がなかったですが、今になって表現できるようになってきたと思います」という言葉でした。
その建築家の抱いていた違和感とは、「モダニズムを理想型とする建築教育」、「洗練化されていくデザインの兆候」だったといいます。
辞書で調べてみると違和感とは、「周りのものと関係がちぐはぐで、しっくりしないこと」とのこと。論理的なことではなく、感覚的なことだということがわかります。感覚としてモダニズムと洗練デザインに違和感を覚えるとは、教授陣にとっては扱いづらい学生だったろうなと思いますが・・。
たとえば現在、建築雑誌をにぎわしている白い空間に対して持つ共通の違和感。よく友人と「同じような感じの建物が多いなあ」と話していますが、わたしはむしろ違和感が同じ方向に偏ることに対して違和感を感じてしまいます。多様な価値、多様な感覚が存在し、それを拾い上げるメディアがある状態が健全なのではと思います。現在に生きる人たちの感覚が似てきているのでしょうか。野武士の時代1970年代のゴツゴツした男性的で多様な感覚・思想をみてみると、そう思います。
それぞれが、生い立ちや経験から、現状に対して自らの感覚から沸き起こる違和感を持ち続け何らかの形にできた時、結果的に様々な建築が立ち現われるではないかと思います。
そのインタビューの最後に、「最近の学生をはじめ若い人は10年前程の建築しか興味がない状況を憂い、建築の歴史の話を常にするようにしている」語られていました。そこに感覚が似てきているという現象のヒントがあるように思いました。
文責:森本 -00317
2009年8月19日水曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿