2010年3月2日火曜日

『そして、すべては寓話で終わる』壱


「建築」と「ことば」


旧い世代になるのかもしれないけれど、「建築」はすでに「ことば」を超えた表現であるがゆえに、それを「ことば」によって説明しなければならないようなものは「建築」ではない、という思いがある。これは建築やデザインに携わる人たちの共通の思いだと思う。


けれども「ことば」を駆使することへ抵抗があるわけではない。実はその正反対で「ことば」で「建築」を語り尽くしたい衝動にかられることの方が多い。


ここ数年、建築に対して感じていた焦燥感の原因を探るべく、非常に私的なきっかけから、今回の『建築をめぐる22の寓話』展を企画したのだけれど、大前提としていたのは自分自身の「建築」を「ことば」で表現する術と理由を見つけることだった。


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今回の企画展・ライブトークは、「建築」を「建築」を用いずに語るというルールをつけた。


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結果としてもっとも驚いたのは、22のトピックを用意しそれらの寓話を語るというイベントに、大勢の人が参加してくれたことだった。参加した理由を尋ねると「22のトピックがきっかけだ」と言う人が殆どだった。


疑似餌として用意した22の「ことば」が人を集めたのだ。やはり「ことば」は「建築」を凌駕する力を持っている。べつにスケッチ展を催す必要はなかったかもしれない。


「建築の周辺」を「ことば」で語る人は多い。ゆるゆると周辺から本質に迫る最近の建築系の有り様は、建築の主流になりつつあると思うし、それらによって建築を“弄ぶ”には十分な土壌が今出来ていると思う。


そういった「建築」を「ことば」で語っていないという状況にイライラし、強い反感を感じていたのだ。

単なる趣味思考の範疇で付加される建築への「ことば」は、結果として見るべき「建築」を曖昧なものにしてしまっている。それがいいのだと言われるとそれまでなのだけれど。。。


結論として、僕自身の立場をあきらかに表明するとすれば、つくりあげた「建築」(あるいはつくろうとする「建築」)を、ひとつひとつ、それ自身について、丁寧に「ことば」で語っていこうと思う。


それは「建築」に内在する「ことば」を、使い手(住まい手や利用者)に届けたいということと、「ことば」のもつ力が「建築」を、使い手自身と一体化するための“触媒”として存在するものにしたいという純粋な思いからだ。


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でもまあ、

結局は、建築は建ちあがってナンボ、その本質や意義・意味などはそれ自身が語るべきものと思っているんだけど。。。



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『建築をめぐる寓話』を終えて



文責:筑波幸一郎-03036

写真:田籠哲也



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