ぼくの場合、あこがれからはじまった建築への道。
両親が設計事務所をしていたこともあり、こどもの頃から建築家へのあこがれは強かった。今にして思うとあこがれの対象が建築ではなく建築家という存在だったことがミソだ。アイドルをみるような感覚に近い。建築家が社会と接点を持ちながらスターのように影響を与えていくそんなイメージ。大学で教わった岸先生に言わせると「生まれてくるのが20年遅かった」と言われる時代遅れな感覚。思い返せば大学院の修士論文は、「戦後の東京計画における一考察」というタイトルで都市的状況から社会の時代性をさぐることがテーマだった。それは表の理由で、実際はメタボリズム全盛期、都市をデザインすることと時代の要請とリンクする高揚感のある時代を追体験したかったに他ならない。
建築は幅がひろい。奥行きもある。願望だが、建築に関わるすべてのことを体験してみたいと思っている。形にすることだけではなく、建築をみること、文章を書くこと、建築教育に携わること、街に関わること、住育に関わること・・・・。この建築イベントなどもそうだ。そんな経験をせずに諦めるには、もったいない、と建築小僧をめざすわたしは思う。建築という眼鏡を通して見る世界は、経験により違った姿を見せてくれる。それが楽しい。建築と関わることで、今まで見えてなかった世界が見えた時、建築をしていてよかったと感じる。日々の活動のなか、あきらめと可能性が同居する中、前に進もうと思える瞬間だ。
今回のテーマを「建築をあきらめない」にしたきっかけはいくつかある。
建築を取り巻く時代的背景が多様化し建築をつくることがむずかしくなってきたこと、この春から学生に教える機会があり、建築が憧れの対象になり得ていないことを痛感したこと、東北大震災を受けて無力感に打ちのめされた中、私たち世代が下を向いていてはいけないと感じたこと、この3つが大きな要因だ。建築は、理想と現実がせめぎ合うリアルな世界だ。リアルだから面白い。著名ではない地道に活動する私たちが語ることでリアリティあるイベントとなりえると思っている。
「あこがれ」は時として原動力となることもあるが、邪魔をすることもある。その「あこがれ」が明確なものではなく淡くつかみどころのないものだと気づく。その淡い「あこがれ」を有形のかたちに落とし込んでいくことで、あきらめない先にあるものが見えてきそうだ。マインド(理想)と具体性。まさに建築がもとめられていることだ。当日は、あこがれからスタートした人間の建築を楽しむことをあきらめない姿を少しでも表現できればと思っている。
文責:森本雅史 9210
2011年10月27日木曜日
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