やっちゃった感
ある建築家から私に向けられた言葉である。
私自身が建築を「つくること」に飢えているが故に、生み出す建築に自分の過去をトレースするように盛り込んでいく。そうすることで饒舌になっていく私の姿、あるいは私の生み出す建築に警笛を鳴らしてくれたのだ。
建築は場当たり的な手法にとらわれず、今の時代今の社会にどう関わりどう広がっていく可能性があるのか。これを真摯に考えて取組んでいかなければ、自身が時代に消費されていくのだと気づかされたエピソードだ。
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思い返してみれば、建築を目指し始めたあの頃から「建築に何が可能か」なんて考えながら、卒業設計やコンペに取組み、務める事務所の仕事に恣意性や施主性の高さを感じれば「なんでその形なのか」「理不尽に迎合するな」と反論し、自分なりに「建築はこうである」のようなことを考えていた。
いざ、今の自分を振り返ってみれば、経済という大きな力に負けそうになり、施主というありがたき存在に負けそうになっている自分を見つけることができる。それでも建築に真摯に向かい合っていることは確かなのだが、建築を哲学することが少なくなってきていることも事実だ。
「やっちゃった感」
この言葉を、新しい価値基準として建築を哲学し、建築の可能性について議論してみるのも面白いかもしれない。(まず、それを議論できる仲間がいるかどうかだが)
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使用例:とある見学会にて
あ~ぁ、やっちゃったねぇそのディテール。それをする事でどんな意味があるの?どこに可能性があるのかなぁ・・・?(さあ、あなたならどう答える?)
文責:進藤勝之-01963
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