エヴァよりイデよりマジンガーZ
生活の中でデジタルコピーが安易に出来るようになって、結果、つくりだされるモノが洗練さをまといながら、その意味や重さ・実体感が希薄になってきたように思う。
オリジナルの持つ強烈さは、その洗練さとともに失われていくのだけれど、遺伝子がくりかえしくりかえし複製されていく中で突然変異が起こるが如く、オリジナル以上の強烈さを放つ「何か」を持った作品が生まれてくる時がある。「何が」そうさせるのかはさまざまな見方があるだろうけれど、パイオニア以降に求められるのはそういった「何か」ではないか。
たとえば、人が乗り込んで操るロボットが主人公のアニメ。その作品はあまたあるけれど、おそらく原点、パイオニア的な存在は永井豪原作の『マジンガーZ』だと思う。その後、勧善懲悪的なロボットアニメ作品がたくさん花開いて、やがて富野由悠季(喜幸)作品の『機動戦士ガンダム』が現実社会の戦争というテーマを巧みに取込みながら、どちらかというと勧善懲悪ではない新たな人間ドラマへと展開していった。そして、最近で言えば(と言っても15年前の作品だけれど)庵野秀明作品の『新世紀エヴァンゲリオン』が人間の内面の葛藤、不可侵の宗教感を背景にした物語を描き、現在に至っている。
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で、もうひとつはオリジナルへの回帰がある。それは閉塞する現況を打破するため、あえて原点へ立ち戻ることを意味する。
山田洋次監督の最新作『おとうと』は『男はつらいよ』第1作とほぼ同じシノプシスだ。違うのは兄と妹が姉と弟となっていることと、弟が死んでしまうところにある。家族・人情を描くためのオリジナル回帰の作品だと感じている。ただこれは原点へ立ち返る行為なのか、ただ単に粗悪なコピーで終わるのか、とても難しい手法だと思う。
建築というジャンルを見渡して、今、例えて言えば、こぼれた水のようにひろがっていく感のある状況を、僕自身はあまり心地良く思っていない。
デジタルコピーの、素数や要素を条件として明示し、アッセンブルする手法だけでつくられる作品には中見が見えないからだ。
突然変異か、原点回帰かを希求する環境になっていると考えている。
文責:筑波幸一郎-02003
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