2010年6月14日月曜日

『アニメが語り始める』トピック14

「君はアンパンマンを知っているか」

なぜ、アパンマンは自分の頭を食べさせてしまうのか? と不思議に思っていた。ある時、やなせたかしが書いた「アンパンマン雑記帳「詩とメルヘン'76年6月号」(サンリオ)」をみつけて、伝えたいことを理解したと同時にようやく腑に落ちたことを覚えている。(下記抜粋)

(略) ぼくがまだちいさい子供の時、遠くの町へ遊びにいって財布を落してしまった。ぼくは何も食べることもできず、第一、電車のキップを買うお金がない。日暮れは追ってくるし、まわりは知らない人ばかり、いったいどうしだらいいのか、死ぬほど心細かったのです。しかたなしに、ぼくは線路を歩いて12キロばかり離れた自分の家まで帰ることにした。ぼくは駅へいった。そしてぼうぜんとしばらくそこにたっていた。日暮れの駅ほどあわただしくさびしいものはありません。

誰もかれも、急ぎ足で正確に自分の家を目指して帰巣本能の命ずるままにせかせか歩いていて、ひとりのパッとしない少年がお金がなくて死ぬほど困っていることに気がつくひとなどはいません。無限とみえるほど大勢の人がいても、それは全く自分とは無関係で、言葉さえ通じない異国の人、いや、むしろ、人間以外の何かのようにさえみえます。ぼくはノロノロと移動して、線路への道をさがそうとした時、「やなせ君!」と呼ぶ声がする-。

見れば、ぼくの友人のK君がお母さんと一緒にいるではありませんか。地獄に仏!真実の神!ぼくはK君とそのお母さんのところにライトがあたってそこだけバラ色に輝いているようにみえました。その夜、オレンジ色の光の窓を行列させながら走っていった帰りの電車の中で食ベたアンパンほどおいしい食べものをばくは知りません。アンパンはぼくの食道にしみ、胃の粘膜(ねんまく)にしみ、心にしみた。ぼくは甘美な恍惚感(こうこつかん)にひたった。幸福は、時として不幸の時に実感する。ぼくはその時に思った。本当のスーパーマンは、ほんのささやかな親切を惜しまないひとだと。そして、そういう話をいつかかきたいと子供心に考えたのです。

「アンパンマン」は、息子が見るようになってから一緒にみることになったアニメだ。カレーパンマンや食パンマンなどいろんなキャラクターが人気のアンパンマンだが、個人的には大人になってからのデビューなので「伝えたいこと」に敏感にならざるを得なかった。(ちなみにファンは、ミントでミント~!のミントちゃん)怪獣を派手にやっつけるウルトラマンのようなヒーローものではなく、正義と悪の間で気持ちの揺れ動きを丁寧に描写し、正義とは何なのかを伝えようとする劇場版などでは、涙腺が緩む。キャラクターが子供たちの心をつかみ、本当に伝えようとしていることをストーリーの中で自然に何気なく教えてくれるのだ。(伝わっていると信じたい)

話は飛躍してしまうが、こどもの目線にたった建築というものがあるのかと考えてみる。「アンパンマン」が、こどもの目線にたって大人が伝えようとすることをアニメで表現していると仮定しての話だ。思い浮かぶのが、仙田満氏らが取り組む、子どもに関わる施設の建築群。仙田氏は、子どもの遊び環境を研究テーマとし、その成果を設計へとフィードバックし建築環境をつくり出している。実際訪れ子どもたちの走り回る姿をみると、建築というかその環境のもつ力に勇気づけられる。その他は、残念ながら勉強不足なのか思い浮かばない・・・。

子供時代を振り返る時「原風景」という言葉をよく使う。「原風景」である子供のころの思い出のシーンを包み込んでいるのは、間違いなく私たちが携わっている建築であり、街であり、環境であると思う。このトークショーを機会に、アニメのような強いメッセージ性ないが、建築だからこそできること、魅力を考えるきっかけにできるのではと思っている。楽観的だが前者が「遊びや楽しさそのもの」を与えるものであるのに対して、後者が「楽しさを自ら生み出す可能性」を与えるものなのでは・・・と。そんなこともトークショーにて議論される??

文責:森本雅史-004205

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